2008年10月3日金曜日

Why do you love me?

人と関わりを持つ場合、その人に対して何らかの期待値が存在する。
期待値の存在しない人間のことを他人と言い、期待値が高くなれば、親友や恋人と言うことになるのだろう。
こと仕事に関しては、その期待値の現れ方は分かりやすい。
仕事の質が期待値に直結する。期待値が分かりやすいので、大概が楽な関係である。安直な期待値を満たし続けられればそれでいいのだ。

これが親友、恋人となるとハードルが高くなる。
相手が僕を親友だと思っていると言うことは、僕はその相手の提示してくる(曖昧な)期待値を(無意識に)超えなければならないし、
強要に近い形で押しつけられる要求を(難なく)クリアすることが求められるからである。
多分、ニュースで犯罪者の知人が、大して仲が良かったわけでもないのにマイクを向けられ、
何故かはにかみながら人物評をする際、「そんなことをするような人ではなかった」
等と言うのは、この辺の所為だろう。
他人に毛が生えた程度の奴らが求めてくる期待値まで超え続ける義務はほぼ無いのだから。

そう考えると、恋人は非常に曖昧且つ利害関係を想定しにくい。
「私は貴方が好きです」の言葉に、どれだけの期待値が詰められているのだろうか。
私は貴方の金払いが好きです。
私は貴方がくれるプレゼントが好きです。
私は貴方の財産が好きです。
私は貴方の体が好きです。
私は貴方のコネが好きです。
想像するだけで身震いがする。
自分も含めて、個は個を利用するものでしかないし、だから全てはギブアンドテイクでしか存在し得ないのだけれども、
それじゃあ僕のことを好きだと言ってくれる人にとって、僕はどんな期待値をかけられており、満たさなければならないのかが
最近さっぱり分からない。逆に、その期待値を満たせるならば、僕はそれだけやっていればいい、
もしくはだれかが代わりに満たしてしまえるのではないかと考えていたりもする。
所詮誰かの代役なのではないかとも。
期待値のみしか求めない、求められないというのは、最近の風潮なのかもしれない。
あらゆる産物はギブアンドテイクをする為に「創出される」妥協であると言い切るならば、これも正しい答えなのだろう。

そもそも、僕は愛されているのか?
むしろ愛の期待値は何なんだ?

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