2016年9月2日金曜日

ふと考えた、神道、仏教、キリスト教での悪霊や妖怪へのアプローチの違いと、怖い話だとどうなるのか

以下は各宗教には、超自然的な力がある事を前提にしているので、いわゆる無宗教や非科学的観点を寛容に受け入れられない人にはなかなか酷な話かもしれない。

いわゆるネットホラー系の話を見ていて、ふと疑問に思ったので。
大抵の宗教には、その宗教の信者が、不可解な現象や事象に見舞われた際に、それを乗り越えるためのシステムが存在する。

ざっくり前提

神道(神社神道)
「禊」「祓」は、ざっくり言うと、「お前、色んな意味で汚れてるから綺麗にするわ」なので、やってることは物理的・精神的な「掃除」。
また、「祈祷」は、畏怖・畏敬を含んで、アニミズム的観点から「まつり(祭り・奉り・祀り)上げる」ことで解決するので、やってることは「持ち上げる(おだてる、よいしょする、一目置く)」

仏教
「加持」は、「仏様、よろしく!」と坊主が丸投げするので、やってることは「依頼」。

キリスト教
「エクソシズム」は、「ウチの神様(とかイエスキリスト)最高だから」と、自分のバックにいる権力の威を借るので、やってることは「自慢」。

概要としては、

たとえば、調子が悪い場合
神道「綺麗にするわ」
 ←状態をフラットにする
仏教「ほとけさま~!あとよろ~!」
 ←仏が何とかする
キリスト教「うちの神様すげえから。キリストもすげえから。」
 ←気の持ちようが変わる

たとえば悪霊が出た場合、
神道「まつるわ」
 ←存在するけど害は無くなる
仏教「ほとけさま~!あとよろ~!」
 ←仏が何とかする
キリスト教「お前誰に口聞いてんだよ。」
 ←(畏れをなして)いなくなる

たとえば化け物が出た場合
神道「(殺してから)まつるわ」
 ←物理的に排除した上に、遺物を保存する
仏教「ほとけさま~!あとよろ~!」
 ←仏が何とかする
キリスト教「悪魔め!これでも受けてみろ!」
 ←物理的に排除する

となるだろう。
で、ここまでが前振り。
怖い話等で、「これは悪魔の仕業だ!悪魔払いだ!」というベタ展開の場合、神父が出てきて悪魔払いをするのだけれども、
宗教が違った場合、どうなるんだろうと。
神道ニアリーイコール仏教だと、妖怪とか。
神道と仏教は神仏習合、後に神仏分離しているので、渾然一体となっている部分があるのは致し方ない。

妖怪の方がわかりやすいので、妖怪で話を進めると、妖怪に対してもキリスト教がやるなら「悪魔め!この聖水(やらの神様的何かが入った何か)をくらえ!」になるだろうし。

キリスト教徒(以下キ)「現れたな悪魔め!」
妖怪(以下妖)「(悪魔って・・・俺、神道的悪魔じゃないから)違う!」
キ「黙れ、これでも食らえ!(祝福された聖水)」
妖「(水かけられたんだけど)冷たい」
キ「効かないだと!?じゃあこれでも食らえ!(祝福された剣)」
妖「」←妖怪は物理攻撃で死ぬ(しかも別に神様とかに権威付けされたモノで無くてもよい)
キ「神は偉大だ!」

うーん・・・流石一神教。征服宗教だけあって、神道・仏教側から見たら、キリスト教的神様のありがたみは無い。ただの気狂いである。

じゃあ日本的幽霊ならば
キ「父と子と精霊の名において立ち去れ悪魔」
幽霊「(誰の父と誰の子供とどこの精霊だよ)。。。」
キ「」

うーん・・・話にならない。

逆にキリスト教的化け物や幽霊その他の怪異は、全て悪魔になるので(異教の神も全て悪魔)、神道的、仏教的対処は可能ということになる気がする。

着地点が分からなくなってきた。
が、やっぱり
「怪異は気の持ちよう」
なんだろう。
効くと思えば効くし、居ると思えば居るしということなのだろうなあ。
アレが凄い、これは良い、それで「信じる者が救われる」のであれば、それはそれでいいんじゃないかと思えてきた。
それも「よその神様」という考え方が出来る日本人だから思えることなのかもしれない。

まあ、なので、ネットもそうだけど、キリスト教系の洋画を見るとやはり考えてしまう。
「こいつ日本だったら間違いなく(殺して)祀って終了だよなあ」と。

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